いつのころからか、「無心に何かを信じてがんばる」ということができなくなってしまったような気がしていたし、実際そうでもあって、というか深く深く努力の本質について考えると、生まれてからがんばったことがないような気さえしてきたのだが、パラパラとふだん見もしないような雑誌をみていたら、「ふざけんな」といわれた。ような気もちになった。感受性の鈍化だとか、純粋さの喪失だとかは、ぜんぶ私のせいであって、まわりのせいでもないし、年齢のせいでもない。それを、ぐだぐだと思ったりしている暇があれば、きちんとひっかかっていることに向き合えばいいじゃないの。甘ったれるんじゃないわよ。とその雑誌のページに書いてあった。というのは、私の解釈で茨木のり子先生はそんな物言いはしないと思う。まあ、厳しそうだけれども。しかし、そういうことのすべて(信じないしがんばらないこと)が、激しい思い込みから私を解放して、ラクにしてくれたような気はする。が、たまにはピシッとしないとねえ。うーん。堂々巡り。
※本当はコレを骨休めに自分用に書いてたんだけど、まあ、読まれてもいいかと思ったので、ブログにアップしてみます。でも、詩のタイトルは忘れちゃった。雑誌は確かふるい『暮らしの手帳』。あれは、ふきんとか、こどもの髪を切るときにどうブロッキングするかとかが載っていて、だらしなく独りで暮らす私には無関係だけれど、穏やかな家族がいてゆとりがあれば役に立つ本なんじゃないかとも思う。まあ、少なくとも実家では無用だったなあ。
※本当はコレを骨休めに自分用に書いてたんだけど、まあ、読まれてもいいかと思ったので、ブログにアップしてみます。でも、詩のタイトルは忘れちゃった。雑誌は確かふるい『暮らしの手帳』。あれは、ふきんとか、こどもの髪を切るときにどうブロッキングするかとかが載っていて、だらしなく独りで暮らす私には無関係だけれど、穏やかな家族がいてゆとりがあれば役に立つ本なんじゃないかとも思う。まあ、少なくとも実家では無用だったなあ。
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